行動に影響を与える言葉違い

 

 

プロ野球選手が簡単なフライをキャッチし損ねる。

 

これってエラー?ミスじゃない?

 

 



ミス、エラー。

どちらも失敗や誤りの意味。


 

しかし、

不注意や勘違いによってうっかり起こる ミス( mis-take )と、基準や標準からズレた誤りであるという エラー( error )では、再発予防のための対策が異なることはすぐに分かる。

 

( * 実際の野球用語としてのエラーにはミスを含むらしいですが )

 

 

 

 

余談だけど、

この違いを気づく機会をもらった直後、重大なミスを犯す・・。この話は今度。

 

いつも出来ていたはずのことが、いつも以上の力みによって出来なくなるのは、ミスと言っていいだろう。対応策も異なる。

 

 

 










さて、

ここに入れた気持ちはドコに届くのか。

 

直接被災者に渡される"義援金"。

 

被災地で活動を行う支援団体に渡される"支援金"。

 

主に復旧事業に使われる"寄付金"。

 








そして、

同志の書くブログ『 のぶろぐ 』で紹介された、リハビリ場面でよく使う "介入"という言葉についても。

 



 

「 治療的介入 」


「 トイレ動作について介入した 」

     

意味も分からずに、こんな言葉を使っていた過去が恐ろしい。

 

 

 

 

 

 

意味は

>強いて関わる

>割り込む

>当事者以外が入りこむ

 

つまり主体が対象者にないということ。

"誘導"も然りだ。

 

 



 

こんな言葉を大して意味も知らずに使っているうちに、自身の行動や思想そのものにも影響を受けているんじゃないだろうか。

     

プラスに働けば良いのだが。

 

 

 



 

子どもが通う保育園では、

保育士の研修会に保護者も参加可能だ。

 

「子どもの成長は家族ありき。保育士はそこに影響を与えるだけ。」

 

「共に学ぶことが大切。」

 

「保育の専門分野でまかり通ることが、常識となっていないことは、保育士の活動不足。」

 

という見習うべき点が多い 家族主体スタンスが当たり前らしい。


家族との情報交換や、共に学ぶことに、どんな言葉を充てているのだろうか。

 

 

 

 


 

介護分野ではどうか。

 

家族ありきという認識はあるかもしれないが、家族"指導"退院時"指導"という言葉を使うのが当たり前になっている。

専門分野で家族を教育する、というスタンスであることは、まだ記憶に新しい。

 


それが是が非かの議論ではなく、

仮に、これを家族"共有"と言葉を変えると、関わる当事者間の気持ちはどう変化するだろうか?

 



常識を鵜呑みにせずに、普段使っている言葉にも注意を向けることが大切かもしれない。

 

 

    

 

 


そのためには


立ち止まって、ゆっくり動き、日々の習慣に注意を向けてみて、違いを知ること。

 


つまり、

もっともっと日々の生活に余裕が必要なんだと気づかされる。