京都から帰ってきて、今日の臨床。
なんか深い根っこの部分が変わり始めた気がしてます。
ポジティブシンキングとか、ネガティブシンキングとかいうのより、
よく分からないけど、もうちょっと深いトコ。
良い部分も、反省するような部分も、
全て自分であるという当たり前のコトが腑に落ちたというか。
ただただ自分のクセやその傾向に、リアルタイムに意識を向けてみる。
その瞬間に気づいたら、
それをやめてみるかもしれないし、コレも自分だと笑い流すかもしれない。
こうあるべきという、
欠点を是正するための努力は、代償パターンを引き起こすかもしれないし、過剰な努力を生んでいることにもまた気づく。
CNSにより統合された姿勢や運動。
そして生きるというコトは、そんなに単純には是正できるはずもない。
すると、なんだか自分を認めるでもないし、好きになる、でもない。
今の言語力では表現できない、大らかで優しい気持ちになる。
すると当然、
対象者との関わりにも変化が。
自分が何を提供できるか?
という所を越え、
ただただ対象者の、
姿勢や動作の傾向、呼吸、緊張度・・・もっともっと色々と 知りたくなる。
ただ傾聴する、優しい手、目、耳になった。
根本になる部分を見つけ、ちょうど良いタイミングで、そこに気づきを与えるために。
先日、息子の動画をジジに送った。
その後にジジから返ってきたライン。
孫を愛する気持ちは、
その背景や心理にまで関心が向く。
そして、自然と全て答えられる自分にも気づく。
もちろん「評価しよう」なんて思ったコトはない。
愛の反対は無関心。
いつか聞いた、この言葉も腑に落ちる。
そして、
息子(自分)すらロクに育てなかったジジが、今では保育士気取りで風呂まで入れてくれるように変わった。
愛を注ぎ続ける結果、変わるのは自分だ。